シケモンの森+

非正規雇用中卒の日常のヘイトメモ。ちゃんとした読む物→https://note.com/sangan_asahikawa

マックとモスバーガーの不毛な争いはやめてくれ

マックを犬の餌という人がいるが。

 

それぞれ良い所があるのでけなしあうのはやめてくれ。

 


マクドナルドよりもモスバーガーの方が、雑な感じではモスの方が(金さえあれば)人気かもしれない。さらに1000円の本格バーガーがさらに良いかもしれない。

 

だが、前回で書いたカップヌードルや二郎ラーメンのように、マックのハンバーガーも一種のジャンルなのだ。他のハンバーガーと似て非なるもの。オリジナルな個性的。

モスバーガー株主優待券があるので結構行くが、時々無性にマックのハンバーガーが食べたくなる。三角チョコパイも食べたい。細いポテトはやっぱりマック。

 

それに安いマックには安い中身の財布だった学生時代の楽しい思い出がある。今だと迷惑でできないかもだが皆でモンハンをした思い出、ハンバーガーを4個買ってくっつけて食べた思い出、中二病でスマイルくださいとイキって言って店員を困らせようとしたがプロ意識の店員がちゃんと答えて反省しながら感心した思い出、皆でワイワイ食べながら塾の宿題を答えを見ながら解いた思い出、100円だっけ?のマックポークバーガーだかチキンクリスプだか100円マックについて皆で熱く語った思い出。その他にも幼い思い出として、マックのハッピーセットを買って、英語が書かれたビニール袋に複雑な思いを抱いたこととか。朝はマックしか店が開いておらず、それに助かりながら朝マックを急いで食べて飛行機に乗った思い出。ロッテリアのふるポテが好きでシャカシャカポテトがモノマネだと憤った思い出。

 

 

味だけでマックを語りモスバーガーを推す人はマックを分かってない。食事という文化はそういうもんじゃないんだよ!

 

あの頃の楽しい旭川買物公園通りのマクドナルドがなくなったのは非常にショックだった。でもイオン旭川駅前店のマクドナルドがまた僕たちの文化を作ってくれるだろう。頑張れ、マック!

 

旭川には不味いラーメン屋がない。ほぁラーメンのどうでもいいこと

旭川には不味いラーメンがない。なぜなら美味いラーメン屋ばかりなので、不味いラーメン屋はすぐ潰れるのだ。

 

ラーメン激戦区、旭川

 

他にもラーメンのどうでもいいことをメモしていく。

 

ラーメン屋に限らず麺飲食店で皆思っていることが、オシャレなラーメン屋は麺の量を少なく、一方で普通のサイズだけど結構な量の店がある。オシャレなラーメン屋では一般男性は大盛にしないといけない。初めて行く店では初見殺しにあうこともある。ラーメンの麺の量の統一を誰か考えてくれ。

 

 

カップヌードルは面白い。売れる食品を作る方法は3種類あると思う。「インスタ映えする食品を作る」「優れた食材を使った優れた料理」そして僕がカップヌードルから連想したのが(正しいかは分からないが)「安い食材を、原材料名達を見ても何の料理か分からないぐらい、複雑に組み合わせて、既存の似た食べ物とは全く違ったオリジナルな料理」だ。二郎のラーメンが他のラーメンとは一線を画すように、カップヌードルラーメンではない。ラーメン似た別の食べ物だ。

10万円の炊飯器より3000円の鍋で炊いたご飯の方が美味い。炊飯器は土鍋がなんたらというが所詮エミュレーション。海賊版。モノマネ芸人。本物の方が美味い。本当の炊飯器はカップヌードルみたいなごはんを作らないといけないのではないか?

 

 

 

子どもの頃、とあるラーメン屋に通っていたが、いつも醤油ラーメンを食べていた。味噌ラーメンは食べなかった。そこのラーメン屋では子どもには辛かった(大人は大したことない)イメージがあったからだ。だから僕は勝手に味噌ラーメンを大人の食べ物だと思っていた(今でも思っている)。ラーメンは塩だの豚骨だの色々あるので、そういう多様性から多様な人間が語れるのが面白い。

障害者にとって社会は戦場だ

発達障害の人を通常学級に入れいじめられる事件があるが。

 

障害者に理解をし温かい社会を作るべきかもしれないが。

 

だが、現状お金をとって世話する大人がいる感じ。

 

それを子どもにも求めるのは、ヤングケアラーを求めているのと同じなのでは?と思ってしまう。

 

確かに温かい社会になった方が良いけど、現実は難しいだろう。

 

話は変わるかもしれないが、ある概念を説明するために、2つ例を話したい。

 

LGBTの人を差別なく付き合うことが社会で提唱されているが、「自分が性的に同性愛が嫌いであること」と「自分の性癖とは正反対の人を認める」という2つの異なる要素を一般人が簡単に両立をさせる価値観を持てるのか?

2つ目の例。障害で顔が奇形になる人がいて、差別はいけないんだけど。だが彼らのような顔を醜いものではなく個性的なものとして認めると、健常者だけどたった今事故で顔が変形した人に対して救急車を呼ばずに「個性的な顔だよね」って判断してしまうかもしれない。

言葉にするとその区別する価値観は簡単に身に着けられる、と思うかもしれないが、簡単に身に着けられるなら彼らの差別はもう世の中には無いだろうよ。

 

それと発達障害者がいじめ自殺した時、加害者をせめる声が多かったが、じゃあその正義を唱える人は障害者に対して何かしらの具体的な支援はしているのか? 皆障害者には優しくというが、結局は福祉の人達だけに押し付けて、勝手にやってよね、って感じ。だからいじめ自殺はなくならないのではないか?

実際、僕はいじめられることはないにしても、よく人から無視されるもんな。自分が悪いのは分かっているけど。いじめ自殺が起きた時だけ人は騒ぐけど、加害者にはならないけど、大多数の人は被害者を無視する人だろうよ。あー、いやだいやだ。

夢は汚い欲望ではない

よく子どもは将来の夢を持つように、色々教育される。この国の工場的な教育として、そうするしかないのだが、それでも自分は批判したくなる。

 

youtuberとかプロサッカー選手とか医師とか。

 

しかし、そういう夢を見て「なんで皆金を沢山稼ぎたい」とか「人にチヤホヤされたい」みたいな汚い欲望を「夢」というキレイな言葉でごまかすのか?

 

本当の夢は成功とは関係ないだろう。好きなコトはどんなに落ちぶれても続けられる、その覚悟が大切だと思う。格ゲーが上手い人も「夢を追う人生は、将来必ず絶対売れないミュージシャンだったとしても、続けられるのが、本当に夢を追う人だ」みたいなことを言っていたのかもしれない。

 

資本主義の世の中では、子どもの将来の職業を思うことが、豊かさに直結すると考えられているだろうが、具体的な職業より、人間としての生き方、生き様を具体的にした方が良いのではないか?

 

士農工商という身分制度があったが、「武士は武芸を学び学問に優れているから武士なのではない。庶民のために国のために命を懸けるから一番偉い身分の武士なんだ」とか「現代社会にはこういう能力が必要とされていて、そういう能力が身につく教育やゲームを作る」とか。よく分からないが。

 

桜井章一氏の「ターザンになりたい」は生き様としてかっこよかったなあ。

頑張ることは良いことだけど、頑張らない人を批判するのは駄目だ

タイトル通りである。仕事とかなんかで頑張る人がいて、それはすごく良いことだが、たまにそういう人の中で「アイツは仕事してない」とかいって他人を迫害する人がいる。

 

頑張るのは自分のためではないのか? そもそも仕事にやる気がないのが普通の人である。無理にやる気を出してもやる気を出したフリの人にしかならない。やる気がない中でどうやって心を入れ替えてやる気があるような行動になるのか? 自分はそう思っている。

 

頑張ることは自分のために頑張るのに、仕事できない人を迫害する人は、結局そういう仕事できない人と自分を比較して「俺はあいつよりマシだ」と他人を利用してやる気を引き出しているだけかもしれない。

 

仕事で頑張れば能力が上がるし、ちゃんとした人は評価してくれる。楽しさだって見つかるかもしれない。仕事のやる気のない人なんて放っておけばいいのだ。所詮その程度のレベルの人なのだから。他人を利用せず頑張らなければならない。だから自分は貯蓄は控えめになっている。貯蓄はしたいが、「貯蓄しないアイツは馬鹿だ」とか「俺は将来一人で逃げ切れる」とか思いたくない。

最近自分がロボットなのではないかと思ってしまう。

最近読んだ本で「人間に意志はあるのか?」というテーマがあった。

過去の麻薬使用者は「頑張ります!」って意志だけでクスリを辞められるんだろうか?

科学的に考える人は「脳がアドレナリンやらなんやらを送って人は行動する。所詮物質。」とこたえるかもしれないが、それは脳が主体性を持っているというスリカエで、その考えは「人間にはココロがあって意志がある」のココロを脳にスリカエただけじゃないかと?

そんな感じのことが新書の哲学の本で書かれていた気がする。

 

正しい情報を沢山調べて、自分の好き嫌いで決めていけば、意志というものがある、と言えるのか?でも僕はそういう意志を持って行動することを辞めてしまった。なぜなら、世の中には正しい情報なんてないから。天動説がウソだったように1000年後にはそれらの情報は嘘になるかもしれない。得た情報が間違っているかもしれない。正反対の正しい情報の2つが手に入って何もできなくなるかもしれない。損得勘定で決めるのは違うのではないか?そもそも正しいなんて神様しか分からない。人によって正しさは違う。正解なんて一人の人間ごときが分かるわけがない。だから神の存在を志向して、何も考えずに狂気で決めるしかない、と自分は思っている。

 

そういう何も考えずに神様を信じて狂気で行動する自分はロボットではないのか、と?しかし、人間になったところで、情報や行動の選択を誤り、人生がメチャクチャになるかもしれない。一寸先は地獄かもしれないのが人生だ。俺はどうすればいいんだ? 自由ってなんなんだ? 意志ってなんなんだ?

政治家にライフスタイルを決められないと生きられないのか?

政治に文句を言う人が多いけど、この国の人は政治家にライフスタイルを決められないと生きられないのか?ということだ。

 

豊かになりたいと国民は思っているけど、その豊かさは「バブルのバカ踊り」とか「通帳の桁の多さにニンマリする」ぐらいの豊かさだろう。この程度の時代遅れの豊かさしかイメージできないから、政府が提案する豊かさも「東京オリンピック」や「大阪万博」のような時代遅れの案しか提案できない。

 

豊かになりたいなら、どう豊かになりたいか、具体的に考えるべきだ。

 

この国の具体性のなさはたまに見かける。マルクスでいえば「使用価値(物を使用して得られる効用)」よりも「交換価値(どれくらい高いお金に換算できるか)」で物事を考える人が多いのではないか?今まで見向きもされなかったカードゲームが「金になる」ってことで方針転換する人もいるし。

 

大学入って風俗でお金を稼ぎながら学費を払い通学する。それは正しいことかもしれない。でも昔論語で唱えられた、「朝、正しい行いをしたなら、夕べ死んでもかまわない」という気持ちで正しい行いをするために学問をすることの大切さ、はどうなんだろう?と思ってしまう。学問で何を学んでどう生きたいかよりも学問でふんわりと給料増えるからやろー、って感じが。ただし、フリーターの生活はかなり厳しいので、うかつにこれは言えない。所詮メモ程度。

 

良い学校入って良い会社入って良い人生、みたいなレールに沿う、他人にグランドデザインされることが好きな人達が結構いそうなので、まあそういうどうしようもない人達がオリンピックやらなんやらにいちいちケチつけるんだろうな。オリンピックは良い物とは思えないけど。こんな奴隷国民が生きやすくするために、国の目標を考える政治家は大変だろうな。